マス

やあやあ元気ですか。私はほどほどに元気です。

「元気です」と言い切らずに「ほどほどに」と言っておりますが、なんら意味はありません。強いて言うならほら、「元気です」って言い切ると、熱血テニスプレーヤーレベルの元気さを演出しなければならない気がしてくるじゃないですか。しないですか。そうですか。

まあ、なんの話をしているのでしょうね。最近の私の近況でも話そうかね。

最近……。最近デレステを始めました。中居くんがCMやってるやつ。アイドルマスターシンデレラガールズだったっけかな。そんな名前のリズムゲーム

同じキャラクターが出てる、モバゲーでやるタイプの通称モバマスというのも過去にやってたんだけど、またデレステにもハマってしまった。

過去にキャラクターたちと出会っているのでやっぱりこの子たちは可愛いなと思うのだが、のちに飽きて「あの時間は何だったんだ」と思うのだろうなという予測もしている。

過去にパズドラやぷよぷよなどの複数のソーシャルゲームをやったことがあるが、やっていくうちに楽しさより義務感が勝ってしまったことに気付いてからやめた。

モバマスと比べて煩わしさが低減していたし、ソーシャルゲーム特有の義務感にとらわれず、リズムゲームとして純粋に楽しめたらいいなと思う。

キャラクターは鷺沢文香さんが好きです。読書好きの女の子。後は北条加蓮ちゃん。元病弱キャラ。かわいいね。

なにもなかった日

いつの間にか時間が過ぎていた。起きてから食事は一度しかしていない。

そして病院の日がなくなった。また2週間も待つんだ。

身になることは何もしていない。勉強も進めてない。

部屋が散らかっている。

気持ちの調子と部屋の散らかり具合は、何故か繋がりがある。

 

 

片付けた。

見た目だけなら整った。

今日はこの部屋で寝て、明日はこの部屋で起きるんだ。

嫌なことは、一旦忘れよう。起きたら、きっといい日になる。

きっといい日にする。

人付き合いなんて。

人付き合いが嫌いだ。
誰かに「よく知らないけど、なんか嫌」と思われているかもしれない。
どうしようもなく嫌いな人物として私を認識している人がいるかもしれない。
全く普段会話しない、単なるクラスメイトに突然
「お前なんかいなくても誰も心配しないから」なんて言われたり、
ネットに本名を名指しで
「もう来ないでくれるかな」などの言葉とともに色々な中傷を書く人もいるのだから。


何年か前のことを時々思い出す。ほんの些細なことだ。
私は友達とLINEで会話をしていた。
相手は夜遅くまで遊んで、帰宅するところだという。
私がなんとなくで返した言葉に対し、相手は
「○○ちゃんのほうがやさしい返事をくれた。もっとやさしくなれよ。」
という言葉を返してきた。

私は、人に対してどう受け答えするかは日頃から考えてはいたけど、
ある程度気を許せる友達に対しては気を抜いていた。
たしかに私は人と比べたら気を使えてないし、できた性格じゃないけど
その言葉に対して少し傷ついてしまった。


私は人と接する経験が人と比べて極端に少なかったから、経験値は少ないけど、
それなりに考えてはいるんだよ。

でも、ダメなんだよね。よく思われないんだよね。人に嫌われるんだよね。


自分の考えがまとまらないのに、何かを喋らなければならない。
会話にはテンポというものがあるらしく、それに乗らなければいけない。
考えた時間の割に大したことを言わなければ少しの反感を買う。
自分が何を思っていようが、同調しなければならないときがある。


あんなことがないようにいろいろ考えていくと、会話の後は大きな疲れと不安がくる。


人付き合いなんて。

今月の予算は本とゲームに使い切った。そんな時に見た夢の話をしよう。

大型書店にいる夢だった。
家族で本屋に立ち寄り、私はひとりで楽しく文庫本コーナーを回っていた。
先日の『アメトーーク』の読書芸人を見て、読んでみたい本が増えたし、
本をがっつりと楽しみたいと思っていた。
だからその時の私はキラキラした目をしていたと思う。
しかし文庫本を8冊くらい手に抱えた時、今月の予算を使いきっていることに気付いた。
私は焦った。
このペースでどんどん手に取ると、
お会計の場所につく頃には5千円札と何枚かの野口さんを使わなければならないだろう。
今月の予算は超えるわけにはいかない。
もう本とゲームにお金を使っているのだ。
満足のいく買い物だったし、後悔はしていない。
だけど「久々にほしい本と出会えたのにそれはないだろう馬鹿野郎。」と思った。
結局、何も買わないことに決めた。抱えている本を一冊一冊、棚に戻していった。
店員さんが、本を戻す私を見たらしく、声をかけてくれた。「どうしましたか」と。
「うっかりしてて、持ち合わせがないんです。また買いに来ます」と言ったら、
店員さんはにっこりして「その本、直しときますよ」と言ってくれた。
「ポイントカード持ってますか」とか色々聞いてくれて、とても親切だった。
私は店員さんと別れてから母の元へ行き、
「飢えた状態で大量の食べ物を見るだけってのはつらいよ」と言った。
何を言っているんだこの子は。という目で見られた。


そこで目覚めた。

ゆめのはなし。

昼寝して夢を見ました。以下、夢の話。


小学生の頃のクラスメイト数人と遊んだ。今まで何年もそんな機会はなかったのに、何かの縁が重なった。私たちで地元の古い家屋へ入ると、ひとりの大人と、私と同年代くらいの男の人が3人ほどいた。よく見ると大人の方は小学生時代の先生で、男の人の方は、これまたみんな小学生の頃のクラスメイトだった。自然と一緒に遊ぼうという話になり、学校の先生は監視役で、私たちクラスメイトは小学校のまわりを走り回りながら遊んだ。するとまた小学生の頃のクラスメイトがひとり、もうひとりと遊びの仲間に加わっていった。偶然私たちを見かけたらしい。
しばらくして、小学校の校庭に入って見ようということになり、先生とみんなで行ってみると、学校の敷地内にクラスメイトが何十人もいた。驚くことに、これで50人ほどいた私たちの学年のみんなが全員集まったことになった。これまた偶然だねと再開を喜び、時間がたつのを忘れ、目一杯遊んだ。かけっこをしたり、だるまさんがころんだをしたり、各々好きなことで遊んだ。
そろそろ空がオレンジ色になるころ、今何時かなと時計を見ると、PM8:37の文字。そこで異変に気づく。たとえ夏の日が長い時間でも、この場所で夜の8時に夕焼けが見えることはない。友達の携帯電話や腕時計を見せてもらっても、時間の表示は私と同じだった。私はおかしいな、と思い、その中で唯一の大人である先生に相談しに行った。先生は「気にすることなんてないよ。もっと遊びなさい」と優しく微笑みながら言った。私は腑に落ちないながらも「そうですか」と言い、元いた場所に戻った。先生にそう言われたものの、これは何かがおかしいんじゃないかと友達と話した。数人は何かがおかしいことに気付いたようだった。時間以外にも、何かがおかしい気がすると思っていた。しかし何が変なのかは誰も言葉にできなかった。
そして不思議なことに、これだけの異変を感じつつ、誰も学校から出て帰ろうとする者は私を含めひとりもいなかった。私たちは何かしらのことを学校の敷地内でしていた。遊びに飽きたクラスメイトの中には、する必要もないのに、「掃除面倒だね」と言いながら竹箒を持っている人もいた。
空も暗くなった。また時間を確認した。AM2:00。時間を忘れて遊んでいたとしても、時間は進み過ぎだし、こんな時間にクラスのみんなが一人残らず学校に留まっている。これはもう本格的におかしいぞという話になり、先生に相談した。先生はまた微笑みながら「大丈夫。気にすることなんてない」と言った。その先生の顔を見て私ははっとして先生に言った。
「この人、誰だ」と。


よく考えれば見覚えなんてなかった。みんな小学生の頃の先生だと認識していたし、私も認識していたけど、この時にやっと気付いた。この中にいる唯一の大人である先生とは一度も会ったこともなかった。
私が先生を疑った途端、やっと今まで感じていた異変を言葉にすることができた。小学生のクラスメイトが偶然集まるわけがないじゃないか。20〜21歳の年の人が集まってみんなでかけっこなんてするわけないじゃないか。義務でもないのに掃除なんてしなくていいじゃないか。時間が気になるなら家に帰ればいいじゃないか。
そして先生は何も言わず、私の目の前ですっと消えた。そして急に空が明るくなった。


先生が消えたということは、クラスメイトも先生と同じように幻のようなものだったんだろうかとまわりを見渡すと、クラスメイトはちゃんと全員いた。みんな「そろそろ帰ろうかな」と言い出していた。私もそうしようと言い、学校から出た。時間が気になったが、なぜか時間を見るのが怖かったので携帯電話は取り出さなかった。時間はたっているんだろうか。一晩が過ぎていたとしたら、家に帰って怒られやしないだろうか。そんなことを考えつつ、私は家に向かった。


ここで目が覚めた。

むきあう

私は小4〜中3まで学校に行かなかったんだけど
それに対しての罪悪感や、それとは違うモヤモヤした感情をずっと持っていた。
でも、少し時間がたって、ずっと暗かった気持ちが穏やかになってきて
高2くらいになって友達と楽しく遊べるようになったとき、
完全に小、中学生の自分とサヨナラできたと思っていた。


でも、高校の終わりになって心が沈んできた時、
学校に行かなかった時のことばかり思い出すようになった。
その時からカウンセリングに行き始め、
昔のことを誰かに話すようになって、改めて当時の自分と向き合った。
自分でもわからなかった感情をカウンセラーさんに助けられながら言葉にしていって、
以前よりさらに昔の自分を受け入れることができた。
昔は、学校に行かなかった時のことを
「自分には必要な試練だったんだ」と思うようにしていて
一方、心のどこかで「甘え」だとか「怠け」だとか
「もうちょっと頑張っていれば」とか思っていたけど、
それが日を重ねるごとに少しずつ和らいでいって、また心も穏やかになってきた。
それが高校を卒業するころ。


でも専門学校をやめた1年ほど前、また昔のことを思い出すようになった。
今度は誰かに話すだけじゃなく、色んな本を読んだ。
精神科医から見た病気の人の話、病気だった人の体験談などを読んで、
自分の幼少の時の家族との距離感や、当時の状況を思い出して、
「心がおかしくなってもしょうがない状況だったんだ
そしてそれは私でも親でも誰のせいでもなく、偶然が重なったことなんだ」
と思うようになった。
というか、この言葉を前から思っていたけど、
以前より強く信じられるようになった。


時間が解決するという言葉もあるけど、
出来事と向き合ったり、人に話したり、誰かの意見を聞いたり、
専門家の意見を聞いたり、経験者の話を聞いたり、
そういうことをしないと
なかなか心が穏やかになってくれないこともあるんだなって思いました。
その出来事と向き合っている間は心がざわついたりすることもあったけど
それもたぶん、大事なことなんだよね。


最後に自分のメモ代わりに、読んだ本を紹介。
●特に読んだ本
・『家族依存症』斎藤学
・『「子どものうつ」に気づけない!』傳田健三
・『マイナス思考と上手につきあう 認知療法トレーニング・ブック』竹田 伸也
『マイナス思考と〜』の本は裏表紙を見るだけでも参考になる本。
とてもかわいいイラストをつかってわかりやすく表現されている。
このほか、こどものうつに関する本、不安障害に関する本、
心理学の本、マインドフルネスに関する本など色々読みました。
親に見つかったら恥ずかしいとか思ってたけど、
Amazonで頼んで、ダンボールごと自室に持っていけば何の問題もないね。

無題2

数少ない、私の地元の友人が働き出した。
また、同い年の友人も卒業後の職を見据えて学校に行った。
まわりは仕事という未来を見据えつつ歩んでいく。
同い年の、そして自分と近しい人の行動を見て、私は焦ってしまった。

私は、人と会ったときに、何をどうしていいか涙がでるほどに考えてしまったり
何かをするときに体を壊してしまうくらいまで頑張ってしまったりしている。

こんな私が先を見るのはまだ早い。
歩くこともできないのに、とても長い長い距離を走りたがっている幼児のよう。
みんなができていることを、自分はできていないみたい。
みんながしないでもいいことを、自分は必要以上にしているみたい。
まずはどんなに自堕落な生活だとしても、
不安になってばかりの生活から抜け出すことが必要。
でも、そんな生活は小学生の時から続いている。
時々、自分はずっとこのままなのではないかと考えて絶望する。


3リットルほどの涙と引き換えに、
このよくわからない漠然とした不安感を消し去ってもらえないでしょうか。
この厄介な不安感と、私は10年ほど付き合っているんです。
いい加減、お別れしたいのですが、駄目でしょうか。
もう、私は駄目なのでしょうか。